こんばんは、sinpです。
今年度は雪がたくさんふりましたね。
雪の重みで下Dくん(仮名)のダンボールの家が潰れないかと心配で夜も10時間くらいしか眠れませんでした。
下Dくんという表記は、「阿Q正伝」を書いた魯迅に対抗してみました。学校の教科書にもなっている魯迅の「故郷」が面白くて魯迅の作品を読み返しています。
■故郷のあらすじ
20年ぶりに故郷に一時帰ることになった主人公。兄弟のように親しく、たのもしい兄貴のような存在であった旧友閏土(ルントウ)との再会を楽しみにしていた。しかし、想い出の中で美しかった故郷はすっかり色あせていた。再会した閏土にかつての活気はなく、よそよそしへりくだるその姿から、身分の差という見えない隔たりを感じる。
おしとやかな美しい女性として豆腐屋小町と呼ばれてたヤンおばさんは、卑しく醜い人物に変わり果てていた。そのヤンおばさんの告げ口により、引越しを手伝っていた閏土が皿を盗もうとしていたことを知るが、知らなかったことにする。自分とルントウの息子が無邪気に遊ぶ姿を見て、この子たちには、自分たちとは違う新しい未来が開かれることを願う。
「阿Q正伝」「狂人日記」など魯迅の初期作品を一言でいうならば「無常」。
不幸な現実に対して何の救いもなく物語りが終結する。そんな不条理に何の疑問も抱かずに卑しく生きる大衆。読んだ後に憤りと哀愁が心に残る。そんな風な描かれ方をしています。
評論などでは作品のもつメッセージ性や現実との対比について書かれることが多いのですが、純粋にひとつの小説として読んでも面白い作品です。最後に「故郷」の終わりのくだりを紹介して締めます。無邪気に遊ぶ子供たちの姿を見た後、主人公が語る言葉です。
「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。」
この最後のシーンを読んで「ひぐらしのなく頃に」の鬼婆の台詞を思い出しました。圭一たちのがんばりにより、沙都子が村八分や叔父の暴力から解放された後、鬼婆がつぶやいた言葉です。「北条家に対する遺恨などダム戦争のしがらみは自分たちの代だけで終わりにしなければならない」若者には新しい未来を歩んでほしいと願う鬼婆をみて、胸が熱くなりました。
未来は作るもの。
どうか子供たちには明るい未来が拓かれますように・・・。